石谷家住宅について

石谷家の歴史と石谷家住宅建築の背景

石谷家は、近世・近代を通じて地域社会の躍進に大きな役割を担ってきました。

古くから屋号を塩屋といい、元禄時代初め(1691年)ごろに鳥取城下から移り住み、本拠を構えました。その後、伝四郎、伝九郎、伝三郎を繰り返し襲名しながら栄えてきました。 

石谷家が大庄屋に命じられたのは明和9年(1772)2代目伝三郎からです。大庄屋とは農民側の在方役人で、裕福で人望と教養を備えた人物が選ばれました。伝三郎は13年間にわたって大庄屋を務めましたが、文化10年(1813)からは初代伝九郎が就任しました。 文政5年(1822)以降は、大庄屋を分家や国米家に譲り、もっぱら地主経営や宿場問屋を営むようになりました。

明治に入り、2代目伝九郎は商業資本家として躍進し、地場産業の振興を図りながら、地域経済を支え、救済事業・学校建設・道路改修など、篤志家として町の進展に尽くしました。

石谷伝四郎

石谷伝四郎(1866~1923)の代には、政治家として明治28年から大正12年まで国政に携わりました。衆議院議員、後に貴族院議員に選出されました。

明治30年代は伝四郎が山林経営と農民金融を発展させ、「因美線」の開通(大正12年)では私財も投じて完成に導きましたが、この年、自宅の改築が進むなかで東京帝国ホテルにて客死しました。伝四郎の死去の後は、戸主がまだ幼少のため、伝四郎の弟の伝市郎が事業を継承して完成させました。

伝四郎が智頭の自邸を大正8年から約10年かけて改築させた大規模な木造家屋が今の「石谷家住宅」です。

大正~昭和の大改築の際、建てられた主屋の上屋の骨組みの立面図
上屋とは、これから建築するものを保護し覆うようにひと回り大きく造られる。大勢の職人が乗っているが、とても小さく見えるほどこの上屋は大きかった。
完成した主屋の上屋のなかで、大正十三年(1924年)に行われた立柱祭。体育館のように広い空間の上屋内部と、立てられた柱や梁、神事の様子などがわかる。

石谷家住宅の特徴

石谷家住宅の現状にみる姿は、大正8年に始まり昭和初期に及ぶ長年月にわたる建設工事の結果です。石谷伝四郎による大規模な家屋建設以前、石谷家は江戸時代以来問屋家業に適した町屋形式でした。明治時代になると石谷家は山林経営を大規模に行なうようになりました。このために石谷家は、住宅であるとともに山林経営の事業所をもつ形態に大きく転換されました。

主屋が古くなったこともあって、敷地を拡大し、山林経営に適するものに変えたのが、石谷家の大正新築事業です。それは一般民家のものではなく、多くの座敷や部屋は林業経営の事務所としての性格を強く反映しており、そこに多くの座敷や部屋がある理由があります。

このように、山林経営の中で石谷家は敷地を拡張し、家構えを町屋形式から屋敷形式に変え、山林経営に相応しい家屋敷の構えにしてきました。 敷地は広大で、そこに建つ建物、築かれた庭園は、用いている資材、デザイン、施工技術ともに最高の水準にあり、その完成度はすこぶる高いと評価されています。

石谷家住宅は、日本が前近代的なものを多く引きずりながら近代化を強力にすすめた時代に行なわれており、その時代背景もよくあらわしています。また、石谷家には当時の建築図面や文書が多く残されており、それらは建築本体と共に近世から近代への建築技術の推移を示す貴重な資料として評価されているところです。